My Life ....My Happy♥!

ちょとした事の中にも喜びを見つけられる自分になりたいな。

今日が最後のけんか?いやこれが両親との最後の日になればいいのに!

今日も何気ない会話に始まったと思ったら、
母がいきなり大激怒して激しいバトルになったよ。



なんていうか両親以外の人が私によくしてくれたというと、
あんたがきついからみんな怖がって優しくせざるをえないだけとか、
人の欠点ばかり責めてくるけどそういう自分だって、
私の欠点ばかりついてくるから精神的にぼろぼろなのと激怒するの。



だから私はお母さんだって決して言ってはいけないことを、
私に言ったでしょ「あんたは性格がキツいから地獄におちればいいのよ‼」とか、
「あんたなんか産まなきゃよかった」と面と向かって言ったでしょ?と言うと、
「そんなこと言っていない!あんたは妄想がひどすぎると大激怒!」



要するに強いつながりがある親友や恋人が、
私の心に寄り添って「彩ちゃん、こうした方がいいよ」と響く声を、
母は私の勝手な妄想と決めつけて攻撃してくるの。



私から見るとこれが宗教者がやる事かかというより、
人として恥じるべき事をしても私が頭がおかしいからととらえるの。



こういう人が他にいないわけではないけど、
母が熱心に信仰する霊友会の幹部の多くが、
人として下品な事を当たり前のようにしていたり、
幹部だからと言ってやたらと威張っているのに、
もしこれが企業の社長だっだったりしたら、
社員から怒りを買って即退陣させられるなと思う事をしていてもわからないがため、
人から指摘されてもかえってその人を猛攻撃するという構図になっている。



だからと言って私が人生の糧にしている創価学会にそういう人が全くいないわけではない。



ただYouTubeで観るSGI(創価学会インターナショナル)のとらえ方と、
日本だけにある創価学会の目指している平和のカタチが、
あまりにも違う事や日本にSGIが存在しない事、
海外の信仰体験が全く紹介されなかった事をずっと不思議に思っていたの。



思い出してみると何かとスローガンは「会員数を〇〇世帯以上とか、
選挙があれば地区で〇〇票をと目標はトップが決めて何の疑いもなく動く会員達。


新聞も目標〇〇部以上を推進と言いながら、
もっとはるかに高度な思想を語っている書籍は全く触れない。


会合でも書籍を勉強したいと私がいっても、
どこの地域でも即却下と言うか完全に無視されてきた。



なのでどこの地域の会合でもやることは同じ事ばかりというか、
古株の学会員の言いなりというか先輩の言うことは絶対というか、
例えば池田会長がこうしていくのが人生のと言ったとしても、
それの中のひとつも取り入れようともしない。



そのくせ「池田会長は素晴らし素晴らしい」と言いながら、
さも池田会長を神のように言うんだけど、
私的には人生のお手本になる人とは思っても、
池田会長がこの世で最も尊敬されるべき人とは思っていないと知ると、
「あんたは池田会長のすごさを全然わかっていない!」と怒られる。


「じゃあ私はわからないから教えてと言うと、
どこの地域でも「池田会長はノーベル賞を受けるべき人物なのに、
嫉妬がはびこっていてそうできないのが悔しくて・・・」と言う。



ある会員は「数百もの世界のエリートの中のエリート大学で、
講演をしたり表彰された事がすごい」という。


結局古来から日本は数字や地位でしか人を判断してこなかったという、
小さな物差しでしか人を見ようとしない風習が根強い。




なので両親が思う良き娘像・人物像の物指しで私を見れば極悪女でも、
ロック界の物差しで私を見るとロッカーの目指ざす強い人間像だったりする。



好きでこういう人間になろうと思ったことは全くないけど、
いつの間にか魂が強い人間にさせられた気がする。



どう考えてもみんなが思い描く”宗教をする人」とはかけ離れているけど、
たぶん池田会長だと思うけど「君が本当の弟子だ」と響いてきたり、
「教学1級の本当の合格者は君だよ!」と響いてきたけど、
婦人部長の人からは試験に落ちるのは当然と言わんばかりに、
「あなたは立場が違うからと」笑顔で言われたけど、
そういうこの人は日蓮大聖人が命を懸けて問いた、
仏法の教えを学ぶ教学が大嫌いと自分で言っていたな。




そういう私はイヤな宗教に騙され続けたおかげで、
死んでも宗教なんかやるもんかと決めていたけど、
先輩学会員にいろいろな質問を責めるようにして答えを求めたけど、
誰一人私の疑問に答える事ができなかったので、
学会の教義を責めるのにも教義をわからないといけないなと思って、
教義や教学を猛勉強し始めたんだけど別に変な宗教ではないなと確信。



だんだんと学会員の多くが聖教新聞を何十年と読んでいても、
過去に同じ事を繰り返し書いていてもそれに気が付かずに、
延々とこの記事のここにハッと目が覚める思いがしましたと言う。



最近の聖教新聞って私が入会したばかりの頃から読んでいた、
聖教新聞とはずいぶんと内容が薄くなったなと思ったんだけど、
新聞代は300円以上値上がりしているなと思ったんだけど、
唯一違うのがモノクロからカラーになった程度に感じる。




そのころ大好きだったのがNGÒや国連のコラムだった。



初代会長・牧口常三郎先生2代会長戸田常聖先生はとは全く会った事はないけど、
何気に読んだ劇画の人間革命が面白くて夢中で読んでお二人の会長の、
師匠&弟子としての絆の強さを知った。



そうかと思ったらお酒を飲んで急に子供のように陽気にはしゃぐ、
戸田先生の姿を知ってとても親近感を覚えました。



ある記事では池田会長がまだ若いころ、
戸田先生に勧められた山ほどの良書を読んでいないのにも関わらず、
「ところで大作!あの本は読んだか?」と聞かれて、
池田会長は「はい、読みました」と答えた。



そこで戸田会長は「そうか、どこが良かったか答えなさい」という。



困った池田会長はこの本を読んでいなかったことを告白。



その瞬間戸田先生は池田会長を烈火のごとくしかったとあった。



でもたぶん私もそうすると思うと感じて、
一人で大爆笑しながら「やっぱり池田会長も人の子ね」と思うと、
おかしくて仕方がなくてしばらく笑いが止まらなくなってしまった。



池田会長もこの信心に疑問を持った事もよくあったそうだし、
お経を読むことが嫌だと思った事もさぼったこともあるとあった。



どうしてほとんどの学会員の多くが、
池田会長の一部を知っただけで生き仏のように、
崇拝するような態度をとるのか私にはさっぱり理解できない。

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